あねどきっ

早速今週号のジャンプを読んだのであるが、「あねどきっ」に出てくる当て馬的少女「桜井さん」がとても可愛くて鼻血が出そう。

キスしたという噂を消すために「一週間話さない」という提案を主人公にするのですが、その会話には、現実でもし起きたら一発で惚れてしまうような、或いは嘲笑ってしまうような、甘い何かしらの成分が含有している。以下抜粋。


主「それで一週間口をきかないってわけか…なるほど」

桜「う うん…だからね、そのかわり…」


桜「これから一週間分話してあげてもいいけど?(照)」






ぐはっ!

中川翔子ライブ所感

友人に誘われ、三千円もの大金を払い、中川翔子のライブへと足を運んだ。

これまで私には中川翔子についての知識は殆どなかった。中川勝彦ムーンライダースとの関わりが多少なりともあった経緯から既知であり、その娘、或いは近年のオタクアイドルの走りでありブログは有名、程度の認識であった。まぁ、言ってみればクラスは同じだが、話したことはない知人、といったくらいの距離の「有名人」であった。

その中川翔子しょこたんのライブに行くことになったのかは省くとして、私が感じたのは、やはり、無知なる人間はその場所へ足を踏み入れることすら出来ない、ということだ。



私は先日、西表へと二週間、祝祭研究の名目でフィールドワークを行った。

そこで出会った祭りが「アンガマ」と呼ばれる盆行事なのであるが、私はこの祭りに参加するつもりでやって来たはいいが、そこは、同じ場所で踊ることすら躊躇するような異様な空間であった。同じ村の、しかしそうは言っても他人の家に上がり込み、庭先で円を描くように永遠とも思われる二十分を踊り、裏声で「ヒャ!」と叫び続ける人々の輪の中に入り込み、私も一心不乱で声を上げたが、一種の疎外感を抱かざるを得なかった。言ってみれば、ファインダ越しにそれら事象を眺めているような、どこかそれらを客観的に観ている。人々の高揚が頂点に達し、一体感が深まるにつれて、一人、孤独を感じていた。決して、踏み込むことの出来ない円の外にいることを感じさせられたのである。

これには勿論いくつかの理由があるだろう。

例えば、この「盆」で送ろうとしている霊は、私には縁もゆかりもない。すなわち、他人だ。完全な、他人だ。その他人を、どういった神聖な儀式のプロセスがあろうとも送るということは出来まい。私には始めからその資格すらない。

他にも「村社会」という西表の体質など、あげればきりがないほど、この疎外感の正体は明らかになっていくのかもしれない。しかし、それでも、それらは解決することは、決して出来ない。



その疎外感を、中川翔子のライブで、覚えた。

どんなにテンションを助長するような音楽であっても、自らアドレナリンを出すような意識を持ったとしても、ライブを観覧する人々と同じようにジャンプや手を振るようなアクションを取ることは出来なかったし、したとしてもむしろその疎外感は増すばかりであった。人々が、ステイジ上の中川翔子と一体感を持てば持つほど、それに合わせてペンライトを振る自分に疑問を持つ。何故、私は、この知らない人間に対して、何かしらのメッセイジを送るような真似をしているのだろう、と。

群衆の中の孤独に苛まされながら、私は、友人を置いて、一人で会場を後にした。



ところで私はヲタ芸というものを初めて目にしたのであるが、あれはとても美しいな、と感じた。

いくつかのメディアで「迷惑行為」であると断罪されているのは耳に入ってきてはいたが、実際視界に飛び込んでくるあの壮絶な動きは、芸術とさえいえる、と考えてしまった。

踊り狂っていた二人組の男たちが、バラード調の曲が始まる前に、土下座のポーズをした。否、それはポーズとは言えないような、或る種の異様な雰囲気を纏っていた。曲が始まると同時に、やがて彼らは顔を正面に向け、手を挙げた。それは私が以前、フィールドワークを行ったメッカで観た光景そのものであった。中川翔子が居る、ステイジをかえり見もせずに、彼らは暫くの間、そうやって、自らの身体を同じようなリズムで上下させていた。周囲の人々の嘲笑にも関わらず、それは数分間続いた。

ヲタ芸は祈りだ。

祈りは、彼らの、連帯感を、また、強くする。

[雑]キャバレクラブの悲劇

最近キャバクラというものによく連れて行かれる。

私はキャバクラというものの楽しみ方がいまいちよくわからないのであるが、バイト先のおつきあいというもので、勿論タダ、ということもあって歌舞伎町界隈をうろうろとさせられる。アルコールの旨さも、あのつけあがった女性たちとの会話にも馴染めず、一度友人の頼みということもあって自腹で行った時など席について五分もせずに「私も一杯頂いてよろしいですか?(笑)」とパーフェクトな笑顔で言われた時には、正直、この女性に一発くれてやったらどれだけ楽しいだろうか、と感じたほどだ。

私は、歌舞伎町で酒を交わしている年配の方々に比べればキャバクラの経験など皆無に等しく、そのような者が何を、と言われればそれまでなのであるが、本来、というか現実的にも、キャバクラとはサービス業である、と思う。客は、安い韓国焼酎やウィスキに、決して値段には釣り合わない金額を切り、その分女性たちは奉仕し、接待する。そういったものだと認識している。

しかしながら、私が連れて行かれるそういった店では、何かと言うと「一杯頂いてよろしいですか?(笑)」の嵐で、何か芸事が出来るわけでもなく、客を楽しませようとする気概もない。そして私が「もちろん一杯ごちそうするのは構わないのだけれども、それは私を楽しませてからじゃないのかな?だって私は安くはないお金を払っている訳だし、それは当たり前じゃない?」というようなことを言うと「何それ(笑)上から目線(笑)」という始末である。金を払って頭にくるなどということも滅多にない。

そういった意味ではオカマバーの方がよっぽど楽しい。

彼ら(彼女ら)は、お客を楽しませようと、芸やネタを駆使し、会話に弾みをつける。そして大抵値段も良心的で、私のような学生には、多少なりともサービスをしてくれたりもする。

ホストもそういった意味では同じだ。まだ数度しか行ったことがないが、彼らのトーク力には恐れ入った。

無論、彼らも必死だ。というかそれはキャバレで働く女性たちも同じであるとは思うが、商売でやっている。当たり前のことかもしれないが、極端のことを言えば自らの稼ぎのために私たちを楽しませてくれる。だが、その心意気や、気概に対して我々はお金を払うのであり、現在のキャバクラ嬢ホステスが何もせずに横で酒をちびちびと飲んでいるだけで対価を得ようとするその姿勢には疑問を呈する今日この頃である。(という単なる愚痴であった)

夏になるとうじゃうじゃと湧いてくるよね、私とか

なんだか最新の日記から一年が経ってるのを考えると、時が過ぎるスピードが早いのを感じるのだけれども、そういえば友人の一人が「二十歳を超えると時間が早く進むようになる」と言っていたのを思い出して、あーなるほどなるほど、それってでも年齢が進むにつれて一年の重み、つまり五歳の私が過ごす一年間は人生にとって1/5なわけで、その四倍もの数値を叩き出されると、四倍速く一年が過ぎていくように感じられるのは納得出来る。というかブログ始めてから五年近いという月日が素晴らしい。あの頃は中学生だったような、そうじゃなかったような、はい。

この五年で色々なことが起きて、例えばマイケルジャクソンは天に召されたし、世界的な恐慌は起きたし、うちの猫も死んじゃったし、そういうことを思い出して行くと懐古的になってしまいあまり良くない。私自身は何も変わらない生活をしてきて、あー五年間っていったいどういった質量とベクトルを持っていたんだろう、ってひとたび思考が働きだせば、エポケする。思考、エポケ、思考、エポケ、その繰り返しだ。

眠いなー。

明後日から夏休みだ。

さて、夏厨にでもなりますか。

真夏の夜の夢

さてさて、温暖化だかヒートアイランドだか知らないが、ねちねちと照りつける太陽と纏わり憑く湿気どもが私を酷く憔悴させるのでありまして、とても耐えることが出来ない。エアコンディショナから突然水漏れが始まってからこの方、肥溜めのように腐りきった私の部屋はサウナの如くである。そこでテレビジョンを点灯させれば「現在、地球は温暖化の一途である、これは我々人類の責である、この40度を超える東京を見れば判るであろう」と豚のような男が仰っていた。何をこの豚が、貴様、豚が豚小屋でベラベラとCO2CO2と叫んでいる間に豚の小汚い口から歯垢を含んだ二酸化炭素が排出されており、新たな「そうだ!僕たち私たちが悪いんだわ!だってとてもエアコンディショナとかテレビジョンとかカーを使ったりしたし、それに毎日呼吸もしたわ!二酸化炭素!CO2!二酸化炭素!CO2!」といった可哀想な可哀想な二酸化炭素中毒を生むのである。

地球温暖化問題は過呼吸の方にお勧めです。

というどうでもいい話はいいのだけれども、突然思い立ったが吉日、この糞暑い中私はとぼとぼと家から歩いて厩橋まで。するとズバンッ、ジェロニモッ、といったような唄声が空に響き渡り、向日葵が飛び散った。浴衣姿の人々、団扇片手に林檎飴を頬張る子どもたち、隅田川の上で育まれた橙々。私はとても気分がよくなったのでパーラメントに陽を灯して紫煙を燻らせ、夜空に咲く虹彩たちの真似をしていたのであった。


 

夢の京都 或いは京都の夢

ふと昨日考えついてしまった、旅に出よう、って。JRはいつもコマーシャルメッセージで「そうだ京都へ行こう」というようなことをサウンドオブミュージックの音楽にのせて私のの脳内にインプットするので、私は迷わずその考えをアウトプットし、チケットを取った。

それで夜行バスにゆらりゆらり揺られて京都に向かっているわけなのであるが、真っ暗なバスの中、心地よい振動を延々与えられていると、ついつい考えごとをしてしまう。

まずバスの名前。

サンライズ出雲やムーンライト越後を代表するように、長距離の夜行はあわや幼稚園児が考えたのではないだろうかという名前が多い。今現在私が乗っているバスもその例に漏れず、ドリーム京都一号である。

ドリームって。

ドリームって。

ドリームって。



…本当はここから話を膨らませて膨らませてパンっ!というような私の構想があって、というか色々と書きたいこともあったのであるが、もう…指が限界。サッカーボールくらいしか友達がいない私はメールなんて打つ機会がないので慣れてないのだ。それにこの心地よいはずの振動?非常に危ない、胃が。先ほど食べた角煮が危なく出てきかけたけど、大丈夫、鼻の穴付近でとめた、まだ、大丈夫。

ということで京都の感想辺りは次の機会に家でパソコンからお届けします。オェー。鬼太郎袋ください、ひとつでいいんです。

昨日の日記ですけれども

いろいろと企画の趣旨を間違えてましてですね、よくよく少女凛血さんの要綱を見ると2007年の漫画を語るなら、ということではないですか!もう、文章理解が出来ないところまで脳みそが退化したのかと言いたい。というわけで、昨日のはノーカウントっ!恥ずかしくて目も当てられないっ!泣きたいっ!

また2007年度版やります、はい。