神々の生きる島

ちょうどテレビジョンを観ていると「浅見光彦シリーズ」がやっており、今回のそれは、沖縄の斎場御嶽(せーふぁうたき)での殺人事件を題材にしている。知念村のユタ(霊媒師)役を知念里奈がやっていることは興味深い。別段それ自体はどうでもよいのだが、しかし斎場御嶽から観る久高島は美しい。

斎場御嶽沖縄県旧知念村に現存する御嶽である。御嶽(うたき、うがん)は祈りの場であり、森や岩場に囲まれた場所に香炉だけが置かれ、奥はイビとして神が降りるサンクチュアリになっている。本来は男子禁制で、そこにあるものは神の所有物として何人も神の許可がなければ動かすことが許されない。そして斎場は「最高の」を意味する言葉で、つまり、斎場御嶽は、数ある御嶽の中でも、最高の御嶽であるということを意味する。

琉球王国の宗教的なファンクションの中で、何故その御嶽だけが斎場御嶽として確立されてきたのか。それには強く琉球王国に人々が信仰する太陽が関わってくる。ぎらぎらとした太陽が毎日のように照りつける琉球の地では、太陽に対して特別の思い入れがある。例えば、王家の人間以外は太陽のシンボリックな表象である黄色の服を着ることは許されなかったし、太陽の昇り沈みを「アガリ」「イリ」と捉え、太陽を世界の中心として考えていた。

ここで考えなければならないのが、斎場御嶽から拝することが出来る久高島、という小さく、平らな、島である。斎場御嶽からはしっかりとした形で、久高島が見てとれる。これは斎場御嶽がむしろ久高島を遥拝するために存在していること印象づけている。つまり、この久高島こそが聖地として扱われており、その聖地を間接的に遥拝するための御嶽なのである。そして、この久高島は琉球王国では最も東に位置する、太陽が何処よりも早く昇る場所である。他にも創世神話の中で、島建ての神アマミキヨが初めて来臨し、五穀の種を持ち込んだ場所としても知られる。

そこで行われていたのが、「イザイホー」、という祭りである。

イザイホーは十二年に一度の午年に行われる祭りだ。その年に30歳から41歳になる女性が祖先の霊の集合体である祖母霊(ウプティシジ)を継承して霊験を得、神人(カミンチュ)になる儀式である。子育ての最も忙しい時期を終えた女性が、その後、神の所有物として生きていくことを象徴する。そして、久高島の神人は、宗教上の、大きな役割を果たすことになる。

その一つが、神人の最高位である聞得大君(きこえのおおきみ)の就任式の立ち会いである。琉球王国では、国王(男)は政治的機能しか与えられていなかった。姉妹(うなり)信仰から来るもので、逆に、聞得大君は象徴的な宗教的機能を持っていた。事実、聞得大君の就任式は大々的に行われるのに対して、国王の就任式は(少なくとも表面上は)存在していなかったのである。イザイホーは、その女性たちが、いかにして神になるのか、そのプロセスを表象している祭り事なのである。(詳しいイザイホーの構造については、比嘉康雄谷川健一『神々の島 沖縄久高島のまつり』 平凡社(1979)などに)

崖の下の井戸、イガイガーで沐浴をを行ったのち、祖母の香炉を自らの炉に移し、霊力を継承する映像を目の当たりにしたとき、永く険しい儀式の間に顕れる、イザイホーが作り上げる人智を超えた「何か」に出会う瞬間に出会った気がした。世界は人間には計り知れないもので構成されており、人々はそれを崇める。近代化された日本はそれらを、遥か後方へと置いてきぼりにしてきてしまった。

そのイザイホーも1978年を最後に行われていない。信仰の欠如や、人材がいないことが上げられているが、多くの場所でも祭り事を行うことが困難な状況となっている。

祭り事(信仰)、政(まつりごと)、は本来、表裏一体となっていた。しかしながら、近代の政治構造は信仰と政治は分離され、そしてその中で信仰は抑圧され、現在に至っている。その近代の歪みは、祭り事を行う島の社会でも、また現実の国会でも表れている、そう言っても構わないだろう。