自由とアヴァンギャルド

先日、一位賞金五十万という高校生にしては破格のコンクール賞金額に目がくらんで応募した油絵の結果が返って来た。なんと嬉しいことに入賞していたのであるが、まぁそれにしても佳作なので雀の涙なかりの賞金しか貰えず、一位の方が酷く羨ましかった。

そんなことはどうでもいいのであるが、その時佳作であったある一つの作品が非常に面白かった。その絵は50号キャンバス一枚で『自由空間』と名付けられていたのであるが、真っ白なのである、完全に。おぼろげに淡い暖色系で枠取りがされているが、それ以外は白地、普通白をデザイン的に表現する場合でも、例えば『ジンクホワイト』を一面に塗ったりするのだがそれすらない。キャンバス地がそのまま使われている。これは珍しい。

なるほど、確かに或る種の一発芸である感は否めないが、それにしても高校生の発想としてはずば抜けたアヴァンギャルドだな、と思った。私と言えばセオリーにがんじがらめにされているので、抽象画を描くにあたってもやれカンディンスキの理論を忠実にであるとか、やれ最終的には黄金比にある程度もっていきたいであるとか、出来上がるのはどれも佳作どまり、やるせない。

ただ、なんとなくではあるが感じたのは、自由が閉ざされているな、ということである。自ら枠を縁取ることによって自由が飛び立つことが出来ないのだ。確かに一定の空間の中での自由はあるが、ただそれだけ。真っ白ではない、既に何かしらの手が加えられている制限された自由なのだ。

人間は元々自由である、しかしながら自由ではない。それは一見矛盾したように映るが真実だ。様々な制約の中で限りなく薄っぺらな自由を手にしているに過ぎない。ある空間の中では自由ではあるが、そこを飛び出すことは我々には出来ない。そういった社会的自由のイメージそのものが、あの真っ白なキャンバスの中に感じたのだ。


北野たけしの映画に『あの夏、一番静かな海』という映画がある。サイレント映画に近いような前衛的なもので、しかし音がないわけではない。ある人はそれを評して、サイレント映画になりきれない駄作、と言った。完全に音を消せば更なる飛躍があったと歎いていたのである。

しかしながら今では北野が完全にサイレント映画にしなかった理由もなんとなく判る気がする。