東京大学物語

季節というものは不思議なもので、その時々に合わせた風流なるものが存在し、例えば夏には花火をするのが定石、冬にゆらゆら線香花火を揺らした所で如何なる感慨も抱かないが、夏にあの小さな光を夜の灯火にすると、まるで自分が蛍にでもなったかのような錯覚を起こすから実に不思議である。

そんなこんなで私は線香花火を数十の束にして携え、日光街道をてくてくと上野へ向かい、東大安田講堂の正門前まで歩みを進め、閑静な学生街の中ひっそりとマッチを擦り闇に一石を投じた。

次々と火を点けられ、火花を散らしては静かに地面に落ちていく線香花火を見ながら時折安田講堂を見上げた。二十世紀半ば、多くの物語が幕を開け、或いは閉じていった。もしその頃こんな真夜中に花火などを散らしていたら、すぐに通報でもされたかもしれないな、なんて当時の情景に浸りながら、月の光に浮かび上がる安田講堂を見ていた。

線香花火の光が安田講堂まで届いているかは判らないが、おぼろげな陰影を見せるそれはまるでレンブラントの絵画みたいで、私の目を離さなかった。

事故の後遺症からか加齢の為かは知らないが最近頭が腐りかけているらしく、正直定かではないのだが、谷崎潤一郎は「陰翳礼賛」の中で、闇の中蝋燭のような弱い光によって浮かび上がる物にこそ美しさがあり、それを美しいと感じる心こそ日本人の美意識である、というようなことを書いていたと思う。実際谷崎潤一郎がそう考えていたかどうかはどうでもいいのだが、私は確かにそのような脆弱な光の中にある陰影に真の美しさを感じる。曖昧糢糊として境界線が我々に対して精一杯美しさを主張しているようで、愛しささえ私は覚える。


最後の線香花火に火を灯しそんな感慨に耽っていると、どうやら知らず知らずのうちに永い時間が経過していたらしく、いつしかその線香花火は光を失くし黒い塊になり、振り子みたいに風で揺れていた。