「いじめ」ということ

突然「いじめ」という物について思いを馳せる。

というのも、「いじめ」についての文章を読んだから、という至って単純な思考回路なのだけれども、それにしても所謂「いじめ」というものが周囲で発生しているのを確認している私としては他人事とは言えず(実際は他人事)、少しは考える余地はある、解決策と為り得るかどうかは別として。

http://d.hatena.ne.jp/junction/20050824


ところで、例えば私は現在中学生という一つの区切りの中では最上級生に当たるわけなのだが、勿論それに至るまでは先輩という存在がいたわけである。

で、この先輩と後輩の関係というのはまた微妙なもので、それは社会に出てからも適用される所謂年功序列の世界をまさに反映しているのだが、我々は絶対に逆らうことくを許されない。喩え彼らが確実に悪であり非があったとしても、教師を介してしか我々に戦う術はないと云えるし、教師を介するということはすなわち卑怯者の烙印を押されることと等しいのである。

と言ったところで彼らがする行動と言えば、食堂で堂々と割り込みをして我先に飯にありつこうとしたり、我々をパシリに使ったり、テレビの前に後輩達を押しのけ群がったりと、正直頭がよろしいとは言えないものばかりなのだが、それでも血の気が多い情熱の塊みたいな中学生である後輩たちのストレスを部屋いっぱいに充満させるには簡単で、日々壁を蹴って穴を開けたりしながら先輩どもの陰口を叩き、互いに憤ってみせる。

少なくとも私がまだ十四歳の時分には、周りの同級生たちはそれでフラストレーションを発散していた。


で、我々は最上級生になったわけだ。

どうなったかというと、毎日のように誰かを罵り、割り込みをされる度にまるでそれが一種の勲章であるかのように舌打ちを鳴らし、そして陰口を叩きあっていた我らがクラスメイトたちは、当然のように後輩どもをパシリとして扱い、割り込みを行い、テレビの前に陣取っていた。

これについて何かを感じるかといえば別に大した感慨は無い。小さい頃に親に虐待された人間が将来家庭内暴力に手を出すという事例は非常に多いらしいし、抑圧された衝動をそのまま下の世代に流すというのは至って簡単なメカニズムにも思えるからだ。しかし疑問には思う。自らが虐げられ、しかもそれに対して反発していた人間が同じことをするこの構図は確かに判りやすいが、同時に疑問でもあるのだ。

自分のこと以外は考えられないのか、と。


結局のところ「いじめ」というものも根本はそこにある。つまりはイメージの問題。自らが虐げられてさえ相手の気持ちをイメージ出来ないのに、未だ「いじめ」というものをされたことが人間が「いじめられている人間」の気持ちをイメージ出来るわけがない。

勿論その他にも様々な要因があり、例えば現在進行形で私のクラスで行われている「いじめ」では転校生が対象となっており、それは新しく進入してきた異物に対して覚える或る種の排他感情が引きがねであることは間違いないし、自分をウィルスを殺す白血球であると勘違いしているヒーローもどきがいるのも間違いがない。しかし全てはイメージという一つの事象に還元できると思うのだ。


例えば我々が人を憎しみ殺したいと感じた時、何故ナイフでその人間を刺さないのかと言うと、それは相手が刺された時の痛みや血をイメージするからである、と言われている。他にも、法律や社会的立場や地位、良心の呵責、そういった多くの物に縛り付けられて自分の衝動を押さえつける。だからこそ、一般的に起こる殺人事件の殆どは計画的などではなく、トリガーが突然外れたことから起こる衝動殺人である。

そのような衝動を縛り付ける縄も無く、教師からは半人前だと言われ続け、立場も危うく、更に言えば「いじめ」に耐える精神力も持ち合わせていない十代の人間たちの中で、「いじめ」という問題が浮き彫りになりやすいのは或る意味必然なのかもしれない。


以上のことを踏まえて「いじめ」を学校から根絶する解決策は以下の通りである。


□学校を消す 

□学校制度の抹消

□いじめっ子を死刑

□全人類無個性化計画

□全人類を洗脳し楽園を築く


案外答えはリンク先の文章最後にある「ゲラゲラ」辺りに埋まっているのかもしれない、ハッ、笑い飛ばせよ糞野郎どもがっ! ゲラゲラ。