火曜日

期末考査中。

やれ試験試験と餓鬼どもがどれだけ互いに競い合うことが出来るかを計る紙切れが渡され、我々は社会上でランキング付けされ続ける運命であることを理解する、つまり「試」も「験」も「ためす」と言う意味であるということ、紙切れに何かを書きなぐっては隣の人間よりいかに優れているかを誇示する。

恐らく数々の生徒たちが数学の答案用紙の空欄をLogで埋め尽くしながら、いったいこの数の群に何の意味と価値があり、それが如何にして我々に対し益を与えるのか、そんなことを考えているだろう、勿論意味はない、そして価値もない、もしあるとした場合、それは自らが最も安定した道を歩む為に必要不可欠な壁、すわち大学といった下らないものへ身を寄せる為だけにある。

森博嗣は人間が数学をする理由について考察するに、意味のないことをするのが人間だから数学をする、意味のないことをするのは人間だけだから、と言った、素晴らしい、これこそ虚無主義、意味がないことを延々と繰り返し続ける僕に生きる意味はあるのか、否無い、意味がないことに意味を見出すことに生きる理由を付加するのか、不思議なループが続く。


そんな無駄な話はともかく僕は数学が好きだ、数学は素晴らしい、美しい、世界を数学的に処理する行為は自然で必然的であると思う、しかしながら僕は、基本的に世界は数学で表せないと思っている、何故なら「数」というものに疑問を感じているからである。

例えば、林檎がある、数量的には「1」と認識できる林檎だ、だがそれは何をもって一つの林檎として存在しているのか、林檎は林檎という名称を与えられたアブストラクトな物体として「1」であることができる、つまりその単位を以ってするほかに存在そのものが「数量としての1」を得ることはできないということである。

林檎が一個ある、ふむ、確かに便利な言葉だ、故に確かに不思議な言葉でもある、本当に林檎は一つなのか?林檎は二つないか?或いは102.5個ないか?そもそも林檎はあるか?むしろ林檎は蜜柑じゃないのか?

そうやって世界に対して陥穽を構えて接するのが良いのかどうか、それは判らない、だがそこに林檎が一個あると本能的に感じてしまったら、それは僕という人間が年を取った証拠なのかもしれない。