フーコ的解釈から文化相対主義へ、オリエンタリズムを捨てろ!

http://www.narinari.com/Nd/20100713921.html


中国に於ける「さらし刑」が問題になっているという。

窃盗などの罪に問われた人々が、手錠を嵌め、衆目に晒されるという伝統的な刑罰が中国では残っている。このニュースでは、売春の罪で逮捕された女性が手錠を架せられ裸足のまま市中を歩かされるという様子が写真で公開され問題になっていると述べられている。このニュースでは、公開された写真のプライバシィの問題を挙げているが、本質的に問題提起されているのは、「公開刑」の方であろう。この日記を読んでいる方々はどういった考えをお持ちであろうか。それはそれとして、大方の意見は予想の通り、「人権を無視している」だ。

このニュースについてのいくつかの日記(100程であるが)を拝見したところ、遅れている前近代的な慣習であるとか、欧米では存在しえない卑劣なものであるとか、人権なんて中国にはない、公開処刑は野蛮だ、などのそういった意見が多数を占めているのだが、本当にそうなのだろうか。ヒューマニズムに価値観を置きすぎた近代に、果たして問題はないのか。同じアジアであることを忘れながらも欧州的オリエンタリズムの中で優越感に浸る日本人に価値観を頭の隅に置きながらも、文化相対主義の枠組みで、その事実を、捉える。


ミシェル・フーコ(1986)が『監獄の誕生』の中で表したのは、欧州での刑罰の変遷が、開示されたハレの場に於ける祝祭空間に身をどっぷりと浸かっていた民衆の価値観を、ヒューマニズムのベクトルに捩じ曲げるように影響を齎したということであった。

多くの人々が勘違いしていることであるが、17世紀から18世紀の欧州でも、「身体刑」と呼ばれる刑罰が日常的に行われていた。「身体刑」とは、囚人の身体にダメッジを与えるシーンを民衆に観せながら処刑する刑罰で、例えば、囚人はその心臓に向かってナイフを死なない程度に刺されながら、その様子を民衆は熱を持った眼で追う。処刑人は民衆が歓ぶように、その嬲り方を変え、その都度、牧師が囚人の耳元で「悔い改めたのか」と囁く。そしてその民衆の熱狂の中、囚人が真なる罪の反省の言葉を口にしたとき、その身体刑は完成し、心臓が抉り出される。

それから時を経て、やがて身体刑は「ギロチン」へと姿を変える。断っておくが、これは、ヒューマニズムによるものだ。ギロチンは何も残虐性の象徴ではなく、美しき人間の同情の賜物なのであり、また憐憫の情である。人々は断続的な苦痛を刑から取り除き、単なる死をそこへ導入した。一瞬の死は、彼らに痛みを与えることなく、刑罰を昇華することを可能にした。

だが、ここでは未だ、祝祭空間はオープンな形で保たれた。度々それら囚人たちのシンボリックな死は、処刑人の権力の継承として扱われ、また回復の形成にも役立つこととなった。フランスの革命ではギロチンに処された側がその後に処刑されたように、それら公開処刑は権力の移り変わり、回復として利用され、衆目のもとに晒されたのである。

その後は多くの人々にとって周知の事実として、現代の方法論へとそれらの形は変わっていった。現在も日本では行われている密室刑、そして最終的な境地として欧州では考えられている、死刑の廃止、である。近代的コンテクストではこうしてヒューマニズムが常に重視され、痛みの付与は、絶対的な悪として扱われ、それを衆人環境に置くなどということは言語道断であるとされてきたのである。

だが、それは、本質だろうか。

アジア諸国の文化圏ではそうはならない。

事実、西洋の枠組みが文明の到来として受け入れられるまで日本でも市中引き回しの刑は当然のように行われていたし、中国では1991年まで処刑がテレビジョンで中継されていた。「すまない!」という言葉とともに響き渡る銃声には深い哀愁が漂う。その声、そして銃声に人々は歓喜し、その死、その反省を祝う。

ジャ・ジャンク(1997)の代表作でもある映画『一瞬の夢』ではスリで捕まった武が電柱に吊るされ、衆人環境に晒されている瞬間が、武自身の視点で撮られ、それを囲む人々の突き刺さる視線が印象的に描かれている。武を観る人々の眼は、単なる野次馬の域を超え、真理を追求する心が垣間見える。大衆は、囚人が真の悔いを得たかどうかを知りたいのである。それは、身体に圧力をかけることでしか得られない真実の声だ。中国ではこの大衆が望むものを観せる装置が未だに存在している。それには多くの理由、例えば農村人口の割合としての大きさなどが考えられるが、文化の違いであろう。ヒューマニズムという価値観だけに重きを置き公開刑を批判するのは間違いであり、欺瞞なのである。

魯迅(1936)は著書『深夜に記す』の中で、それまで公開処刑に反対していた意見を反転させ、公開処刑に対して賛成を表明する。それは弟子たちの密室での死を経ての思考転換であり、「密室刑の方がずっと寂しい」と記している。公開刑だからこそ現れる民衆の力、というものはある。真実の声を聴きたいという大衆の望みは、その公開刑の中で活性化し、昇華される。その美しい文化の中で育まれてきた過程を、単なる野蛮の一言で片付けるのはいかがか。まずこの中国的な思考プロセスを批判する人々は欧州的なオリエンタリズムの思考に陥りながらも自らの国が死刑廃止というヒューマニズムの極地にも到達していないという矛盾にも気付くべきだろう。



と言っても別に中国を擁護しているわけではありません。

考え方の問題です。