時よ止まれ、君は美しい

十代が終わり二十代が始まる。

ゼロ年代と呼ばれた世代もいつの間にか露と消えた。気付かぬうちに2010年へと突入している。時間は、あっ、という間に過ぎ去っていく。昔は、時が早く流れてはくれないだろうか、という想いばかりが募っていたが、今となってはそれはこれ、もっと私に時間をください、と切に考える。何故、こんなにも時の流れが早くなったのだろうか。

小学生の時分、私は、神童、と親を含めた幾人かの人々に云われていた。知能指数テストでは高得点を叩き出し、全国の模試では勉学に勤しむことなく常に上位をキープしていた。いつしか「まふみ君は将来が楽しみね」とお世辞ともつかぬ言葉を掛けられるのが当たり前となっていた。私も「そうだ、僕は、天才なのだ。これから何でも出来る、たくさん素晴らしいことをしてこの本棚を埋める偉人たちのようにきっと僕の名前を歴史に刻まれるだろう。何も僕を阻む壁など、ない」と自らを過信し、そして回りの愚かに振る舞う人々を観て、何故人間はかくも頭が弱いのだろう、と卑下した。

それからどれくらい経っただろう、中学高校と親元を離れ、自らの小ささ、そして、誰かの愛情なしには生きられない、とても弱く、脆い人間であることを知った。この社会、家族、世界に受け入れられないもどかしさを他人にぶつけ、そのフラストレーションを部屋の壁にぽっかりとした真っ黒な穴をあけることで発散した。

「俺は今、牢獄の中にいる。その決して破ることの出来ない堅固な獄中で、一人で、孤独に、風の中、耐えている。俺はずっと、誰も必要ない俺には誰も必要ではない、と自らに言い聞かせて生きてきた。しかしどうだ、いざ世界から見放されてみると俺はぴゅうぴゅうと吹く風の中で泣っき面を浮かべている。涙が頬を伝い、そのどこにも向けようのない怒りを、何も罪のない壁へと叩きつけている。俺は糞だ、糞としかいいようがない」

と15歳になった私は日記に記している。

世界中が敵になったような気がして、仕方がなかったのだろう。

それでもまだ僅かにある希望たちに縋って、こう書かれている。

「しかし、決して吹き飛ばされることはないだろう」

と。

今のは私はどうだ。

小学生、そして十代の私が疑いもしなかった、偉業を達成させることが出来る自分でいるだろうか。少なくとも、近い未来には何か出来る、と考えているだろうか。そう問い直せば、そんなことは微塵にも思ってはいない、とすぐさま答えを出すだろう。小さな綻びと、限界が垣間見え、私は、苦痛に顔を歪める。自分の無力さと、そしてその希望の光の弱さに、ただ虚しさを抱く。何も感じない、何も出来ない、そびえ立つ壁は、高く、険しい。

おばあちゃんが癌であると云う。

私を最後まで見捨てなかった、おばあちゃんが、癌であると云う。

しかし私にはまた何も出来ない。ただ、その辛い顔を観て、

「大丈夫」

と声をかけ、また空気が少しだけ震えるように

「きっと、大丈夫」

と自分に言い聞かせるだけなのである。

ところで、何故時間が早く感じるのかを考えると、アインシュタインは「ストーブの上に手を置いている一分間よりも、可愛い女の子と手を繋いでいる一分間の方がずっと短い」と言っているが、その思考では今の方が長く感じる筈で、私はやはり人生に於ける時間の重要性というか、価値観の相違からであろう、と思う。

それは六歳の頃に過ごす一年間は、二十歳の私がこれから過ごす一年間に比べれば、三倍の容量を以って捉えられる筈で、きっとそういうことなのだろう。だから今はあの頃の三倍のスピードで時が過ぎ去っていく。恐らく、そうなのだろう。そして、私は、そういうことにしておくことにした。