本日、友人宅に集まりまして鍋でもつつこう的なイベントを開催しようと近くの商店街にあるスーパーくずれの八百屋みたいな店に行ったのだが、何故だか白菜だけがなかった。八百屋に――厳密には八百屋ではないのだが――白菜が売っていないとはどういうことだと憤るも価値なし、白菜鍋に白菜を入れないなど言語道断ということで、仕方なしに少し遠いところにあるスーパーまで赴くことになった。

そこで何とか白菜含めた鍋具材の調達に成功し、やれやれくたびれたのだけれども疲れた分きっと美味しく鍋をいただけるに違いない、と思いうきうきルンルンと友人宅を訪問すると、先に鍋の用意を整えていた仲間たちから【遅い】と非難の声を上げられた。なるほど、彼らは私にかける労いの言葉すら知らないのである。

そんなこんなで彼らに理由を伝え、如何に私が鍋の為に貢献したか、如何に真夏の空の下あの気が遠くなるような場所にあるスーパーに行くことが辛かったか、それを身振り手振りを交え説明すると、彼らの一人が言った。


「別にキャベツでもよかったんじゃね」


貴様ら、貴様らは全く以って判ってないよ、キャベツと白菜ではわけが違う。鍋に入れた時のシャキシャキ感やら、よくほぐれた白菜のとろりとした甘み、それを全く判っていない。私はそれを必死に伝えようとしたのだが、レタスとキャベツの違いにすら気付かない彼らには何を言っても無駄だった。


ところで、その時話題になったのが、キャベツとレタスは似ているし、キャベツと白菜も似ている――彼らに言わせればの話なのであるが――のであるが、白菜とキャベツは似ていないということである。なるほど、確かに世の中には【A≒B B≒C A≠C】というどこぞの三角関係みたいな微妙な括りで纏められている存在があるが、これもその一種であるということらしい。彼らは一々それについて神妙に頷いたり、納得したりしていたと鍋をつまんでいる小一時間時ほどの間、ずっと議論を交わしていた。そんな彼らを見て、私もまた理解した。


キャベツと白菜の区別もつかない野郎どもに傾ける耳はない、ということを。