冬から何かに至る感傷

数々のイベント―例えばクリスマスや正月といった―が足早に過ぎ去ってゆき、寒さが尋常でないほどに身に染みる季節になって…、師走だからなのかそうでないのか、よく判らない忙しさに身を包まれて、たまに空を見上げると綺麗な星が見えたりする。そういうひとときが素敵だ。

或る種の区切りみたいなものが恐らく次の春には我々を待っているようで、そこへ向けての準備のようなものに追われる日々、すなわち盗んだバイクで走り出したりする季節が終わるわけなのだけれども、感慨があるのかというと、どうなのだろう。自分でも判っていない。

先日、学校でのこと、友人が小さなラジカセで誇らしげに尾崎豊の『卒業』を流し、いったい卒業して俺たちには何が残るんだろうか何が俺たちをこういった競争社会に晒したのだろうか…、と呟いていた。

なるほど、我々には何も残るまい、否、残るかもしれないのだが、そこに何かしらの意味を持たせない限り結局のところそれは『無』であるのと同じである。では、何を以って付加価値を得させるか、そこが問題だ。例えば交友関係、例えば社会生活へと繋がるであろう処世術、悪くなった目や早くなった足、得た知識、…或いは思い出か。

或る観点からみるとそれは全て無価値に思える、しかしながらどこかしらに意味を見出す方々もいるだろう。それだけで何かを残せたと言うのなら悪くないと私は考えるし、恐らくそれが全てであろう。


では私には何が残ったか?


何も残っていない。依然何も残っていない。

だから私は『何が残るのか?』という疑問に対して回答を考える限り考えることで【何かを残す】のかもしれない。考えるという行為そのものに意味を見出す…。人が、判りあえないということだけを判りあうように。



そんなどこぞのわっかみたいに、無駄でぐるぐると回り続けるような、とりとめもないことを考えさせられる季節。