マルチリンガル

私の学校にいる英語のチューターはフランス人の癖に英語の授業を受け持っており、尚且つフランス語は世界の言語の中で一番美しいなどとほざいている始末なのだが、我々学生が早朝から米国の日本や諸外国に対する横暴について論議していると、アメリカのブッシュはホントに最悪だよっ死んだ方がいいよっ、と流暢な日本語で憤るナイスミドルである。

しかしながら、こういったマルチリンガルを見るにつけ私は腹が立って仕方が無い。


私は昔―と言ってもまだ数年前のことなのだが―欧州に居住を構えており、我が国を合わせて実に四カ国もの学校に通っていた。それもこれも父親の仕事の都合なのだが、たびたび小学校を変えさせられる身からすると余り芳しくない状況であり、せっかく作った友人とすぐ別れなければならないだとか、苛められるだとか、そういった実にどうでもいい問題よりも何よりも、同じ場所に長くいないということから起きる、友人や教師が何を言っているか判らないという一番基本的である言語的な問題が重要であった。

だいたいに於いて私は半年とその場所に留まることは無かった。その為現地の言葉、例えばフランス語をいつの間にか話せるようになったとしても、すぐスペインに移らなくてはならなかったし、スペイン語を覚えようと必死になっている間にフランス語などは当に忘れてしまう。その悪循環がまたコミュニケーションを難しくさせる。

しかしながら私の父親と言えば、日本人学校などに入れるよりも現地の学校に慣れさせ、言語的にも文化的に発達させることが最重要であると思い込んでおり、いくら私がコミュニケーションの難しさや言語の壁を訴え日本人学校へ行くことを要請しても、貴様の努力がたりないからそうなるんだっ俺が小さい頃は云々、などと長ったらしい説教が始まるばかりで、流石の私も幼心にこの男には何を言っても無駄だということが判った。

それで現在の私に何が残ったかと言うと、日常会話レベルのスピーキングが多少身についているくらいで、正直単語や文法などは何も残っていない、ましてや喋ることすらままならなかった為文化など残るわけがない。結局、日本語も適当で中途半端なマルチリンガルが誕生したわけである。


まぁ、しかし何も残らなかったかと言えば嘘であり、今の私のフランス人作家―例えばバルザックスタンダールマラルメと言った連中―が好きという傾向はその時の影響であるし、色々と得たものも大きいのだが、どちらにせよ言語を数多くこなす生粋のマルチリンガルを見るにつけ、どうにも私は腹の虫が治まらないのである。