□塀の上で

いつも一緒にいたかった 
となりで笑ってたかった
季節はまだ変わるのに
心だけ立ち止まったまま


何かしらの愛だとか情だとか、そういったようなものが僕の周りを渦巻いているということは知っていたのだけれども、それはそれといつも見て見ない振り、例えば僕を狂おしいくらいに思っているあの娘のことも、適度な情と、それに加えてありふれた物質――愛と呼べる代物を少しだけ加えて練り込んである――を与えてあげればどうにかなると思っている。これは、それがクールであるとかかっこいいことであるとか、そういった意味合いでは決してなく、事実そうなのであり、それを判っていながら別れというものが必然的にやって来る時、あまりの自分の不甲斐なさに涙さえ零れ落ちてしまうのである。完全な矛盾。

昔、お前は女というものに対して何かしらの畏敬の念を抱いておりそれが逆説的にその人間への情を決定的に欠落させる、と誰かに指摘されたことがあり、僕もその時は、ふむそれは一つの僕の中に含まれている結果なのかもしれない、等と納得もしていた。実際、僕の初恋は彼女の【死】という形を以って終わりを迎え、その時の彼女に対する感情は今でも或る種の理想像となって僕の中に生き続けている。お偉い方々はいつでも訳知り顔で、我々は我々の価値観を他の誰かに押し付けるものでもない、と仰るのだがそれは真理であり事実ではない、我々はいつも何かを――それが単に気に入らない癖だとかそういう部分であろうと、たとえフォルム化されたものであろうと――押し付けて生きている。だからと言ってそれが誰かを傷つける理由にはならないのだが、僕も勝手に象られた理想をパンケーキを捏ねる要領で型にパンパンと嵌め込んで、それに合わない液体的というよりも固形的な物を排除しては、無闇に切り捨ててきた。真実、無感情でそれをやってのけてきた。


時には少しばかりの金銭の為にそれをやってのけたこともある。若い時分、といってもほぼ最近まで、僕は大変な貧乏生活を送っており、年齢的な問題や学校という枷からバイトもままならず、生きていくだけでもかなりの労力を要した。それを簡単に解決する手段として取られたのが軽い援助を受けるという方法である。それに対して罪悪感は持たなかったし、むしろ自らの不幸における対価としては丁度よい、などという馬鹿げた考えを頭の中では巡らせており、それが正当であると信じていた。仮想の愛と夢を与えてお金を得る、ディズニーランドと似たようなものである、と。


なるほど、僕は傍から観たら最悪な人間である。とりわけ女性の方々からすれば人間の屑も屑、はたして生きている価値があるのかどうかも判らないとさえ思われても致仕方がないと思う。しかしながら、それでも尚、生活の為、そんな口実を一つ、相手の為、二つ、そうやって何かしらの理由を思い浮かべては誰かを傷つけて我が道をひたすら進んで来た。勿論【自分の為】だけに。


ところで僕は今年の初めに或る種の人生の転機になるような恋愛に係る体験を二つ程した。それは、陳腐な言い方ではあるが、とてもとても哀しい結末を含有したもので、一つの件に関してだけ言えば、別に僕が当事者ではないにも関わらず心に深い傷跡を残したし、もう一つはといえば、まるで刷り込みに成功したアヒルの子供が母親を執拗に追いかけるように僕だけに対して異常な追跡能力を以って延々と狙い続けてきた。


しかし、それが今までの僕にとって大した問題であったか、と問えば、否まして問題にもならない些細な出来事である、と返したかもしれない。前者は言うなれば男女間ではよくあることで、価値観の相違、すなわち、単なるセックスを前提とした関係であったか、恋愛感情というものを含んでの関係であったのか、ただそこだけに集約されていたことであった。後者などは単に僕が恋人に振られた、それだけである。だが、比較対象とするべきは結果ではなくプロセスだ。そこでは複雑な人間関係やら相互の感情、そういったものが入り乱れては登場人物全てが、僕たち私たちはあなた方のことを思うからこそだからこそ傷つけずにはいられないのでありましてそれは僕たち私たちが悪いわけではなくあなたが悪いのです、と主張しているのである。なるほど、物事には三つの側面がありまして、相手の言い分、自分の言い分、そして真実、誰も嘘などついてない、共通の記憶は微妙に異なる、とはよく言いまして、誰しも皆様は真実を吐いているつもりで話して、そして自らの正当性をアピールするのです、はい。


それが果たしていけないことなのであろうか、とはよく考える。特に何が悪いだとかそういうことではないだろう、と思う。多くの人間はそうやって生きている。しかしながらその僕の周りに描かれた人間模様が酷く滑稽で、それでいて僕のロマンティシズムを刺激するので、なんともいたたまれない気持ちになり、少しだけ僕も前に進んでみようかしら、と考えたりしてしまったのである。それで学習したつもりになって。




その後何が起きたのか、それこそ大した問題ではないだろう。また僕を巡る恋愛がいくつか発生して、そのまたいくつかは終わったり、いくつかは始まったりした。そして僕は今、涙を流してこの文章をやけくそに打ち込んでいる。自分の不甲斐なさに泣いているのではない、自分の不甲斐なさに泣いているという状況というナルシズムに浸って泣いているのである。腐ったタマネギを切り刻む時、タマネギを切り刻んでしまったことに対して涙を流す要領で。


さよならだけが人生です、はい。