花火

今日は天気が良くて気温も25度まで上がる夏日だという。冬も終わって、はや夏が近づいている。今年は昨年ほどは猛暑にならないだろう、というニュースが連日テレビジョンでは流されているのだけれども、五月に夏を意識させれると、また厳しい暑さをどうしても想像してしまう。

ところで、夏の代名詞ともいえる花火が今年はいくつも中止を迫られている。もちろん、先日の地震に対する自粛だ。江戸川花火や湾岸花火は既に中止が決定し、都内の大きな花火も、あとは隅田川くらいだろうか。今年は夜空に散る、光の群れを追うことも少なくなる。哀しいものだ。

いったい誰がこの決定を下したのか、それは私には定かではない。イシハラ都知事が花見を自粛するような圧力をかけたことは有名であるが、それが花火の運営にまで力を及ぼしたのかもしれないし、或いは本当に単なる悲哀の表現としてのこの決定だったのかもしれない。どちらにせよ、花火を運営する人間が、いかに花火というものを知らないかを露呈する結果となってしまった。

元々、花火が夏の代名詞になったのには理由がある。それは海開き、そして川開きの日に合わせているからである。海や、川を、人々が泳げるように開放する季節、それに合わせて花火は上げられる。だからこそ、隅田川や江戸川、荒川など、河川敷で花火を打ち上げる。花火は、その日までの一年間に亡くなった水没者を弔い、これからの一年間、泳ぐ人々が彼岸に持っていかれないように捧げられる、祈りの光であり、音であり、表現なのである。この世に残ろうとする、水没者たちの魂を、導き、照らす、唯一の道標なのだ。

それを考えれば、いかに今回の決定が阿呆らしいかが判るというものだ。震災によって多くの人々が亡くなり、その亡骸の埋葬すらもままならない中、我々がしなくてはならないのは、その弔いだ。江戸の先人たちが行ってきた、その偉大なる信仰と文化の結晶を、深く考えもせずに取りやめるという浅はかさ。あまりの馬鹿さ加減に呆れてものもいえない。

我々が本当にしなければならないのは、東北まで届くようなドデカイ花火を打ち上げて、彼らを気持ちよくあの世へと送り出すことではないだろうか。